AIに記事を書かせたら、自分の中身の薄さが見えてしまいました
整っているのに、ぞっとした。そこに私が通った跡がなかった。
1ヶ月ほど前、10日間ほど、私はAIに記事を丸ごと書かせていました。
テーマを渡せば、2,000字でも3,000字でも、まとまったものが返ってくる。すごいことだと思います。ある意味で、楽をして書いていました。
ある日、その記事を読み返していて、手が止まりました。
まとまっている。筋も通っている。わかりやすくて、整っている。
なのに、ぞっとしたのです。あまりに綺麗に流れすぎていて、このまま世に出してはいけない気がしました。何がいけないのか、そのときはまだ言葉になりませんでした。
その違和感がどこから来るのか、何度か読み返すうちに、一つの文に行き当たりました。
締めに「最後に一つ、問いを置いておきます」と書いてあったのです。すごく綺麗な言い方で、締まりとしても良くて、整っている。でも、よくよく考えたら、私はこんな言い方を普段まったくしません。日常で「問いを置いておきます」なんて言う人もいなければ、誰かが書いた文章でそんな一文を読んだ覚えもない。これはやっぱりおかしいな、と感じました。
そして、その一つを見つけてしまうと、次々に出てきました。たとえば、やけに気の利いた比喩。「振り子のように」みたいな、普段の自分なら使わない言い回し。分かりやすくするための比喩のはずが、かえって何を言っているのか分からなくなっている。一見整っているのに、よく読むと、不自然でした。あ、ここも自分じゃないな。ここも違う。読み返すほど、自分ではない言葉が浮き上がってきました。
以前とは、逆だった
前にも一度、AIの出してきたものに引っかかったことがあります。
ただ、あのときの引っかかりは、種類が違いました。AIの案が筋を外していて、文脈を無視して、表面的なところに逸れていく。その雑さに対して、手が止まったのです。
今回は、逆です。
完璧に整っていることに、ぞっとしました。
同じ「引っかかり」でも、原因が真逆でした。あのときは足りないことに引っかかったのに、今回は、足りないものが何ひとつ見当たらないことに引っかかった。それが、よけいに気味が悪かったのだと思います。
整っているのに、何も残らない
整った文章を読んでいて、気づいたことがあります。
読み終えても、何も残らないのです。
引っかかる角がない。つまずく石もない。きれいに最後まで運ばれて、それでおしまい。心のどこにも、傷がつかない。
自分が過去に書いてきたものを、何本か思い返してみました。下手だったし、まとまってもいなかった。でも、なぜかいくつかは、書いた本人がまだ覚えている。
たぶん、書いているときに、痛かったからです。
そこまで考えて、ようやく一つだけ、はっきりしたことがありました。
整っているのに気持ち悪かったのは、そこに、私が傷ついた跡がひとつもなかったからでした。
なぜ、急にごまかせなくなったのか
あれから、その違和感がずっと引っかかっていました。なぜ、あんなに気になったのか。
たぶん、AIが、一定品質の床を全員に配ってしまったからだと思います。整っていること。まとまっていること。わかりやすいこと。これらはもう、頑張って到達する加点ではなくなりました。誰でも、最初から持っている初期装備になったのです。自分が必死で身につけたつもりの技術が、です。
綺麗に書けることは、もう加点になりません。減点されないだけです。
だとすると、整っているだけの文章は、書いた人が通った跡が残っていません。誰が書いても同じです。
綺麗なだけの文章は、もう誰のものでもありません。だから、価値が宿りにくいのだと、今は思っています。
整えることで、隠してきた
ここから先は、うまく言えないのですが、書いておきたいことがあります。
「整える」という技術は、私にとって、ずっと便利な道具でした。きれいにまとめれば、それらしく見える。中身が薄くても、整え方で、なんとか格好がつく。
正直に言うと、私はたぶん、整えることで、中身の薄さをごまかしてきました。
何年も、毎日メルマガを書いていた時期があります。そのうち、正直、ネタが尽きてしまって、中身のないメルマガを配信していたことも、少なくありませんでした。それでも、形式さえ整えれば、なんとか格好がつく。本当にごまかせていたのかは分かりません。でも、お茶を濁せていたのは、確かでした。
長いあいだ、それで通してきた気がします。
ところが、AIが完璧に整えてくれるようになって、その手が、使えなくなりました。整えること自体には、もう何の価値もない。誰でもできるからです。
気持ち悪かったのは、整えることで隠してきた中身の無さを、AIに証明されたからでした。
では、何が残るのか。
たぶん、そこにどういう体験談を乗せられるか、どんなリアルな感情や感覚を乗せられるか。そこに魂を吹き込めるか。生の言葉を使えるか。本当に大切なのは、そこなのだと思います。
魂を吹き込む、と書くと宙に浮きそうですが、私が言いたいのはもっと地に足のついたことです。自分が実際に通ってきた具体を乗せる、ということです。迷ったこと。削ったこと。痛かったこと。影のある体験。それは、私の在庫からしか出てきません。
AIは、正解を出してくれます。出せなかったのは、私が通った跡だけでした。
ごまかせない、ということ
ごまかしが利かなくなった、と思います。
整っているだけでは、もう、誰の心にも残らない。だとすれば、自分が実際に通ってきたものを、そのまま晒すしかありません。迷ったこと、削ったこと、痛かったこと。きれいにならしてしまう前の、でこぼこのまま。
ここで「人間にしかできないことが残ったのだから安泰だ」と書ければ、きっと気持ちよく終われます。でも、そうは思えません。
ごまかせない、というのは、自分が本物かどうか、毎回問われ続けるということだからです。こけた跡まで、隠さずに晒し続けるということだからです。
フェアではあるのだと思います。整えるだけの言葉が残らない時代は、本物しか残れない時代だから。
でも、フェアだからといって、怖くないわけではありません。
ごまかせないというのは、こけた跡まで晒し続けるということです。
本物かどうか、毎回問われるということです。
それは、正直に言えば、まだ怖い。怖さは、消えていません。
ただ、不思議なことに、怖いと思いながら、逃げたいとは思っていない自分がいます。むしろ、ここで勝負する時が来たんだ、という感覚のほうが強い。整えるだけの言葉が通用しなくなったその場所で、自分の跡で勝負する。腹が、据わってきました。
怖いのに、少し武者震いをしています。きれいに解消できた怖さではありません。怖さは怖さのまま、それでも前に出たい。これは、たぶん私だけの話ではない気がしています。真剣に勝負をする時が来た、というのが、いまの正直なところです。
探究の続きを、一緒に
自分が通ってきた跡。迷ったこと、削ったこと、痛かったこと。
それを、人に見せられる形にする前に、まず自分自身がちゃんと知っている必要があります。けれど、自分の跡ほど、自分では見えにくいものはありません。きれいに整えた説明のほうが、先に口から出てきてしまうからです。
私自身、自分の言葉だと思っていたものの中に、自分じゃない言葉が混ざっていたことに、ようやく気づいたばかりです。たぶん、まだ気づけていないものもある。だからこれは、私がいまやっている最中のことでもあります。
最近書いたもの、話したもの。AIに手伝ってもらった文章を、そのまま出してしまう前に。そこに自分が通った跡が残っているか、一度だけ立ち止まって見てみる。私がいまやっているのも、それくらいのことです。
このニュースレターでは、そうやって自分の輪郭をたどり直す問いを、少しずつ言葉にして届けています。ご購読くださった方には、整える前の自分に手が届くように作った「自己探究コンパス」をお渡ししています。
自分が通ってきた跡を、もう少し丁寧に知りたい方は、こちらから受け取ってください。



